/ 久米村(クニンダ)

 琉球王国時代の那覇には、福建省出身者が定住した久米村(クニンダ)という地区がありました。その名称は、那覇市久米という町名に残っています(地図のオレンジで囲んだ部分、ゆいレールの県庁前駅のすぐ近くです)。この近くには、波の上ビーチや波上宮があり、観光客でにぎわっています。久米地区には、福州園がありますが、観光施設としてはややマイナーで、大抵の観光客は、久米という地名には特に関心を示さないものと思われます。

 1944年10月10日の空襲で旧那覇の街は壊滅し、さらに戦後の区画整理で大幅に様変わりしています。次の2009年の地図(久米村周辺の史跡・旧跡)に久米村(クニンダ)関連の旧跡を赤線で示しましたが、かろうじて形をとどめているのは、上天妃宮跡の石門(現・天妃小学校)ぐらいです。なお、久米至聖廟が建てられたのは2013年で、2009年の地図には掲載されていないので、付け加えました。

 1923年の地図(久米村周辺の史跡・旧跡)では、松山公園と福州園の辺りは丘陵となっています。久米大通りから若狭大通りにかけて路面電車が通っています。長虹堤跡は、まだ道路として機能しています。
 明治始めごろの推定図は次のようになっています( 琉球唐栄久米村の景観とその構造)。久米大通りの両側に住宅が並び、その外側を上天妃宮、下天妃宮、天使館、内金宮、孔子廟など中国由来の施設が取り巻いています。町の中心には水路が入り込んでいて、北には広大な林が広がっています。琉球処分(1879年)以降、久米村の解体が始まり、沖縄戦で破壊され、戦後の区画整理により街の様子は一変し、今ではかつての面影はほとんど残っていません。 


▼上天妃宮跡の石門(天妃小学校の一角)、戦災を耐え抜きかろうじて形をとどめています(コース15│NPO法人 那覇市街角ガイド)。


久米三十六姓の子孫は現在も活動
 琉球王国時代の久米村の住人は久米三十六姓 (くめさんじゅうろくせい)と呼ばれていましたが(沖縄の久米三十六姓とは?)、その子孫は、1914年に久米崇聖会を組織し、現在も活動を続けています。なお、久米村の住人は、自らその集落を唐栄と称していたそうです(最新版 沖縄コンパクト事典)。
 久米三十六姓について、最新版 沖縄コンパクト事典では、次のように説明しています。現在の久米崇聖会の会員には、首里からの入籍者の子孫も含まれているようです。
 14世紀後半ごろ進貢貿易を遂行するために、福建から数次にわたって派遣された通訳・船頭などの職能集団。ただちに琉球に土着したわけではなく、中琉間を往復するうちに定住する。三十六姓は漠然とした数字。16世紀後半から東南アジアの貿易構造の変化などによって久米村の人口は減少し、蔡・鄭・林・梁・金姓が残存するのみとなるが、近世琉球では、首里王府による久米村籍への移入政策などによって新入唐栄人が急増する。
 久米至聖廟(孔子廟)と明倫堂(琉球初の学校)は、久米村にありましたが、1944年10月10日の空襲で焼失しました。戦後になって、若狭の天尊廟に復元、さらに福州園北側に移転しました。久米崇聖会のデータを基に変遷の経緯をまとめると次のようになります。なお、那覇市観光資源データベースによると、久米至聖廟の設立は1676年となっています。
  久米至聖廟 明倫堂
久米村・泉崎橋近く 1675年〜1944年 1718年〜1944年
若狭・天尊廟 1975年〜2013年  
久米村・福州園北側 2013年〜 2013年〜 

出来立ての久米至聖廟・明倫堂
 久米至聖廟 (明倫堂を併設)は、福州園北側の久米郵便局の跡地の公園の一角にあります。ゆいレール県庁前駅から歩いて行くと、福州園を過ぎ左に入ると、久米至聖廟の裏手に出ます。そこから、ぐるっと半周するとようやく正門にたどり着きます。その存在に気付かない観光客も多いと思います。

▼久米郵便局の跡地の公園から、明倫堂(正面の建物)と大成殿(右)が見えます。正門(至聖門)は裏側にあるので、ぐるっと迂回しなければなりません。

至聖門を入ると、正面に大成殿、右に明倫堂が見えます。

▼大成殿は、出来立ての堂々とした建物です

▼大成殿内部の正面には「萬世師表」という表示があります。「【萬世師表】とは、「永遠に人々の規範となる人物」を意味し、一般に孔子のことをさす言葉」(中国貿易公司オンラインショップ)だそうです。

▼右手には「有教無類」という表示があります。【教え有りて類(ルイ)無し】と読み、【人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれたときから差があるわけではない】と言う意味だそうです(福島みんなのNEWS )。

▼左手には「聖協時中」とい表示があります。


久米至聖廟跡と孔子像
 久米至聖廟は、もとは泉崎橋の近く、現在の那覇商工会議所辺りにありました。

 久米至聖廟は、1676年に建てられ、1718年に、その敷地内に琉球初の学校である明倫堂が設立され優秀な人材を多く輩出しましたが、沖縄戦で全て破壊され、現在は那覇商工会議所の隣接地に孔子像と「孔子廟跡」「明倫堂跡」と刻まれた石碑が置かれています(那覇市観光資源データベース)。

  孔子像は久米至聖廟が1975年、若狭の地に戦後復興されるのに合わせ、台北市政府から久米祟聖会へ贈られたもので、孔子直系77代の孔徳成先生が出席し除幕式が行われた、ということです(那覇市観光資源データベース至聖廟と久米村 | 一般社団法人 久米崇聖会

天尊廟・天妃宮
 天尊廟・天妃宮は、波上宮に向かう途中にあります。波上宮は多くの観光客が訪れていますが、そのほとんどは天尊廟・天妃宮を素通りしているようです。googleマップには、天尊廟(孔子廟)という以前の表記が残っています。

 案内図によると、龍王殿、関帝廟、天尊廟、天妃宮が正面の建物に同居しています。「老朽化した天尊廟・天妃宮は当面危険回避のため、比較的劣化の少ない旧大成殿へ仮遷座してあります」(施設案内 | 一般社団法人 久米崇聖会)ということですから、正面の建物が旧(至聖廟)大成殿のようです。ということは、左側の建物が、天尊廟と天妃宮で、右側の建物が旧明倫堂ということでしょうか。

▼貸衣装を着た外国人観光客(たぶん)の子供が遊んでいました。

▼中央に天尊廟があります。といっても天尊像があるだけです。

▼右に天妃宮があります。といっても天妃像があるだけです。

▼左に龍王殿と関帝廟があります。といっても龍王像と関帝像があるだけです。

▼左手奥には、程順則頌徳碑蔡温頌徳碑があります。この2人は久米村の2大偉人で、さいおんスクエアの名称は蔡温に由来します。



那覇は浮島だった
  1700年以前は那覇は次の図が示すように浮島でした(沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫)。したがって、久米村が出来たころは、首里とは海で隔てられていました。そして、首里と那覇は、長虹堤と呼ばれる約1kmの浮道(海中道路)で結ばれていました。長虹堤は、1451年に築造され、1633年来琉の冊封使杜三策の従客胡靖は、この浮道を「遠望すれば長虹のごとし」とうたい、それ以降「長虹堤」と称された、ということです(長虹堤跡 | 那覇市観光資源データベース)。戦後の区画整理により、街の様子は一変したため、現在ではその痕跡を探ることも困難となっています。

 浦添市美術館には、葛飾北斎が描いた「琉球八景 長虹秋霽」が収蔵されています。そこに、長虹堤が描かれていますが、幕末当時、周辺は陸地となっていました。浦添市美術館によると、北斎が琉球を訪れたわけではなく、『琉球国志略』の挿絵「球陽八景」をもとに制作されたと考えられているそうです。

作品名:琉球八景 長虹秋霽
(りゅうきゅうはっけい ちょうこうしゅうせい)
制作者:葛飾北斎
制作地:江戸
制作年代:1832年頃
1451年頃に尚金福王の命で造られたといわれる海中道路・長虹堤が描かれています。当時の那覇は浮島と呼ばれる島で、長虹堤は崇元寺橋から那覇のイベガマ御嶽にいたる長い石橋でしたが、次第に周辺が干潟化し、北斎の時代には陸地になっていました。
 1700年ごろ、長虹堤周辺は干潟となっていました( 那覇市歴史博物館02.王国時代の首里・那覇)。


現代沖縄における「久米系末裔」の人々のアイデンティティに関する一考察:久米崇聖会を中心として
閩人三十六姓と明初の対琉政策